Maro's 腰痛患者の駆け込み寺

2010年07月30日

miffyと罰


 オランダ二日目は、日帰りでデンハグ、ロッテルダム、ユトレヒトを周った。
ロッテルダムがあまりに退屈だったので、購入済のチケットが無駄になってもアムステルダムに帰ろうかと迷っていたが、アムス行きの急行列車が目の前で出発してしまった。

「やっぱりミッフィーを観てこいって事か…」

 初めてミッフィーを知ったのは10年前だった。
当時付き合っていた彼女(散々迷惑をかけた)が大のミッフィー好きで、やんちゃがバレた償いとして、高円寺商店街の寂れたオモチャで5000円の巨大ミッフィーを買わされた。
ろくに仕事をしていなかった当時自分には、5000円の出費は痛かった。

 あのバッテンの口が「悪い事してはいけません」という戒めのシンボルに見えた。

 ユトレヒトはとても情緒豊かな街で、街に降り立った瞬間から気に入った。
ところが、突然天気雨が振り出し、近くのカフェに避難することに。ついでに頼んだヌードルスープが美味しく、コロナを呑みながら雨が止むのを待っていたら、閉館17時まで時間がなくなっていた。

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慌てて店を出て、地図より勘を頼りに爆走したが、珍しく道に迷ってしまい、疎らな通行人に道を尋ねながら必死に駆けた。
「ここまで来て、ミッフィーを観ずに帰れるか」と妙な使命感に駆られていた。

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なんだかズボンがやたらに下がってくる。
走る事に気を取られていると、ズボンがトランクスの下まで落ちてしまう。
(後で確認したらフックが外れファスナーが落ちていた)

 前方全開&半ケツ状態で、ミッフィー館に突っ走ってくる姿は結構なものだろう。
「ミッフィーに全く興味がないのに、なんでこんな必死こいてんだ俺は?」と自問しなが走っていた。

閉館1分前に到着したが、チケット売り場でクレジットカードが読み込めない。
泣きそうな顔でカウンターのお姉さんを仰視していたら、「もういいわ。入って。」と通してくれた。
 相当なミッフィー好きのアジア人に見えたのだろう。

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館内では金髪の幼児と並んで、汗だくになった手でミッフィーフィのグッズを漁った。
これは完全にコレクターマニアの癖。

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結局、ファンでもないのにミッフィーグッズをしこたま買ってしまった。
ミッフィーの大袋は結構目立つ。
 電車で正面に座っていたポルトガル人の高校生たちが、「おい見ろよ、あれでどうやって遊ぶんだろうな?」と小馬鹿にしていたので、「娘が大好きでねぇ」と意味のない言い訳をした。
 
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ミッフィーは、永久に私に罰を与えるうさぎである。
ニックネーム    at 23:22 | Maro'sのコンセプト

オシフィエンチムでの出会い

 小学生の頃からアウシュビッツに強い感謝があった。
なぜだか理由はわからないがチャップリンが大好きで、「独裁者」を観た影響もあったのだろうが、とにかく一度は訪れなければいけないと思っていた。
(チャップリンはホロコーストの事を知り、独裁者をコメディータッチで描いた事を後悔したそうだ)

しかし、なかなかポーランドに立ち寄る機会はなく、この歳になってやっと願いが成就した。

地球の歩き方でアウシュビッツのガイドをされている中谷さんの事を知り、メールでガイドを依頼したが、「団体の先約あり」との事でで断られていたが、出国の2日前に「キャンセルが入ったので受けられます」というメールを届いた。
 
 「オシフィエンチム」…これがアウシュビッツの元の地名だが、読み方が面倒くさいとドイツ人がアウシュビッツに改名した。

 そのオシフィエンチムまで電車で3時間半も掛かるため、朝5時半にホテルを出て、ワルシャワ中央駅からクラコフを経由して→オシフィエンチム駅に向かった。 
 2日目だったがロストバゲッジのため、機内で着ていた汗まみれの服と下着を身につけて出掛ける羽目になった。

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 オフィシエンチム駅で中谷さんと待ち合わせた。
最初に対面した印象は、相手の性質を慎重に探る人であった。

 駅から車で10分弱で到着した最初の施設がビルケナウ。
アウシュビッツ強制収容所だけでは足りずに後に増設された。

チリチリと強い日差しが照りつける中、ゆったりとしたペースで歩きながら説明を受けていたが、途中から中谷さんに対する関心が高まっていった。
「この方なら話しても通じる」と感じ、私は過去の大戦やその後の日本が歩んできた道のりについて持論を述べ、彼も淡々と持論を述べた。

 線路にユダヤ人が詰め込まれて来た車両が1両あったが、その脇にイスラエルの国旗を身にまとった集団が地べたに座っていた。
「彼らは自分たちの親族の酷い殺され方にショックを受けて、休み休みでないと見学できないんですよ。」と中谷さんから説明された。

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 見学のルートは、ユダヤ人を載せた列車が入ってきた線路沿いを歩き→ガス室→焼却炉→人骨が捨てられた池→宿舎→アウシュビッツ強制収容所の順で周った。

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シンドラーのリストのワンシーンに出てきた線路

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右端に立っている医師が、指で右を差すと「毒ガス室」行き。左を差すと「労働者」となる。

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ガス室へ送られる母の腕に抱かれる赤子。

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途中から収容しきれなくなり、ほとんどの人々は到着して直ぐに毒ガス室へ送られた。

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 皆、この階段を降りて地下室に入り、「シャワーを浴びる」という名目で手前のスペースで服を脱がされる。そして、右に曲がったところにシャワーヘッドが天井に付いたガス室がある。満員電車の2倍の密集率で詰め込まれた。ここでも先導するのはユダヤ人なのだ。

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この下(地下室)に毒ガス室があり、1500人もの人が詰め込まれた。天井から殺虫剤のチクロンBが落とされると窒息の苦しみで大地が揺れたという。殺虫剤を使用したため一瞬で死ねるわけではなく、窒息死するまで10分から15分も苦しんだという。

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この池には数えきれないほどの人骨の灰が沈んでいる。半焼けの遺体も捨てたため長い間ガスが沸き出ていたという。(中国でもこの池と同じ事が起きていたのをご存じだろうか)

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ビルケナウの最後に、ユダヤ人が寝泊まりしていた宿舎を案内してもらったのだが、この宿舎は湿地帯の上にレンガを積んで建てられているため、建物内は湿度が高い。
扉を開ける前から、とても嫌な予感がしていた。

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 入室する時に、中谷さんが「独りでは怖くて入れませんよ」と言った。
この言葉は聞いた時、13年間ちかくこの地でガイドをされていながら、単なる「お仕事」にいない事、そして、この地に慣れていない事に対して「心がある人だな」と思った。
 確かに振り返ったら、大勢の人たちが横たわってこちらを見ている気がしてならなかった。「今まで数人の人が、この部屋に入って同じ感想を言いましたよ。」と中谷さん。

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多くの人々が銃殺された「死の壁」 倒れた2つのロウソクを立て直す中谷氏

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中谷さんの話を伺っていて、支配する側よりも支配される側の集団的心理について、強い興味をもった。
ドイツは収容されているユダヤ人の仕切りを、ドイツ兵ではなく同胞のユダヤ人にさせていた。
 リーダー的存在の人間には「頑張れば生き残れる」ように思わせ、同胞の監督をさせていた。
 だから暴動や反乱が起きる前に、不穏な動きがあるドイツ兵にリークしたりして生き延びた者もいたようだ。
「人は究極の状況になると、どうやったら一日でも長く生き延びられるかしか考えられなくなるものなんですよ。 ドイツ側に情報を流した人たちは、自分が生き延びて種を残すことが相手への抵抗になると考えたのです。」と中谷氏はいう。

 ドイツは収容所の設計から建築、運営や規則づくり、虐殺行為まで、すべて分業にしていた為、関わっていた人たちには罪の意識はそれほどなかったらしい。また、ルールを詳細に設定することで、罰を与えるドイツ兵の罪悪感を上手に弱めたようだ。
 実際、収容所にいたドイツ人たちは「自分は殺していない。中央機関からの命令に従っただけで、そういう意味では自分も被害者だ」と口を揃えて言うらしい。

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「働けば自由になれる」有名なアウシュビッツの門

 アウシュビッツに展示されている毛髪や鞄、靴などが山積みにされた写真は何度も本で見たが、実際に目の当たりにすると苦しいものがある。
特に赤ちゃんや幼児の衣服や靴の山を見た時、12歳の甥っ子の事を連想した。

 「なぜ、ドイツとイスラエルは関係を修復できたのですか?」と訪ねた。
「それはドイツが自分たちで過去の過ちを認めて謝罪し、今後彼らに危害を与えないという事をはっきりと示したからです。その点日本はもう一歩勇気が足りないですよね。」と中谷さんが言った。
 確かにそう思う。
戦後、被害国に対してドイツと日本がとってきた態度と行動には、とても大きな隔たりがある。

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 ビルケナウとアウシュビッツの隣に民家が結構ある。
「よくこんな場所の近くに住めますね」と私が言うと、「逆ですよ、伊藤さん。彼らは元々この地に住んでいたのであって、ドイツが勝手にこの地へ収容所を作っただけの事です。こんな施設がなければ、この地が世界中で知られる場所にはならかったのです。」

 見学を終えて一杯ビールを飲んでから駅まで送ってもらった。
帰宅したら、ランチにお子さんへハンバーグを作ってあげるらしい。

 別れを告げて電車に乗り込もうとした時、大事な大事な医学書を車の後部座席に忘れてきた事が発覚し、慌てて中谷さんに電話をした。

 「医学書でしょ。伊藤さん、電車1本乗り遅れるけどいいかな?」
「もちろんです。」と応えながらも、内心は「あ〜あ、早めに帰らないとショパンミュージアムが閉館しちゃうから、この電車逃したらクラコフの観光できないや。」と凹んでいた。
 10分後、本を片手に中谷さんが現れ、「伊藤さん、これは何かの縁だからクラコフの駅まで送っていきますよ。」

「いやいや、1時間以上掛かるのに申し訳なくて頼めませんよ。」と断ったが、頑なに送っていくと仰ってくださったので、お言葉に甘えて送って頂く事にした。

 中谷さんは、翌日から日本に戻って8か所近くを周って講演をされるという。
何気なく講演の時の自分の心構えや、知人の著名な講師たちから聞いたコツを紹介していたら、「いやー、これは本当に何かの巡り合わせだな。実は、何を話そうかまとまっていなくてイライラしていたんですよ。伊藤さんの話を聞いていたら、3つの章立てができたんですよ!いや、本当に良かった。こういう事だったのか。」と、とても喜んで下さった。

 こちらは恐縮の限り。

 ご迷惑をおかけした事に対して何度もお詫びをすると、「謝る必要なんてないですよ。私は無理をしませんから。私は縁を感じたからこうしているんです。こっちで暮らしていると理論よりも巡り合わせ(直感)に従うと上手くいくんですよ。」と言って下さった。
 理論よりも巡り合わせを優先…プライオリティの設定が自分と似ている。

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結局、車中からクラコフの街並みとお城を見学して、駅前のカフェで遅めのランチをした。

 移動中も食事中も、ずっと夢中でお話をしていたが、とてもとても中身の濃い話ができた。

 最後はプラットフォームまで見送りに来て下さり、軽くハグしてから握手をして別れた。

「また何処かで会いましょう。」
普通の日本人なら「必ず連絡します。」なんて言うものだが、その辺はさすがにサバサバしていて中谷さんらしいと思った。

 帰りの車中では、2日目にして旅の半分の目的を果たせた達成感と、素晴らしい縁を与えてもらった事に対する感謝の気持ちで一杯になっていた。

※戦後、日本は中国をはじめベトナムやカンボジアなどのアジア諸国に多大な経済的、人 道的支援をしてきた。 特に中国に対しては「賠償的」な意味も含めて、相当な経済的支援(ODA)を行ってきた。(日本人でも知らない人が多い)
 中国の奥地には、日本を「小国」「虫のような小さな国」と馬鹿にする輩もいるようだが(日本にも同等の連中はいる)、今日の中国の目覚ましい発展に、我が国が僅かなりとも貢献した事は間違いないはずだ。
 しかし、ただ金をあげるだけで、それを交渉に上手く活かせず、PRもできていない無能な外務省と政治家、日本が支援した事を自国の国民に伝えない中国政府のずるさに腹が立つ。
 日本政府はドイツとイスラエルが積み上げてきた関係から、何か学べる事があるのではないだろうか。 




 
 
ニックネーム    at 00:34 | 今週のぼやき

2010年07月29日

川島永嗣が選んだ道

7月25日 川島選手の治療のためベルギーのリールを訪れた。

 ブリュッセルからアントワープを経由してリール駅まで1時間もあれば辿り着ける。

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 この日は10時半から練習があるため、9時10分前に駅で待ち合わせをしていた。

 朝早かったこともあるが、駅前は閑散としていて何もなく、「こんな質素な街でどうやって過ごしているんだろう?」と思った。

   
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 ほぼ時間通りにKIAというベルギー製の小さな車で迎えに来てくれた。

はじめに大きな車を用意してもらったが、車高と車庫の高さが合わなかったらしい。

 練習場までの道中にW杯でのチーム事情や、パラグアイ戦のPKやスナイデルのシュート、そして現状について色々と聞かせてもらった。

 「同じPKで負けるにしても、味方のキッカーが相手GKに阻止されて負けるよりは、枠を外して自滅してくれた方がこちら(GK)としては幾分マシだよね?」と質問したら、「そうですねぇ」と同意していた。

 同じGKとして、現役時代に何度もPK戦を経験してきたが、相手GKが大当たりして負けた時は、申し訳なさと情けなさで地獄に堕ちた気持ちになる。

 川島選手は2本目とも読みが当たったが、ボールに触れなかったので、「もっと早くに動かなければ」と考えたらしい。

並みの選手たちなら、2本連続読まれると「強いボールを蹴らなければ」と考えるものだが、逆にパラグアイの3人目以降の選手たちは、川島選手の動きを目で追ってから蹴り始めたという。
 さすが試合巧者の揃っている南米だ。
イングランド戦が終わった後も、自分が本大会で試合に出られるとは思っていなかったようで、楢崎からレギュラーを奪った事に自身驚いたようだ。

 「楢さんが現役の間にポジションを奪う事ができないのかなと思ってましたからね。」

 名古屋時代はずっとベンチを温めていた頃は、「辛い」と思わないようにしていたが、当時を振り返るとやはり辛かった事に気づいたそうだ。
それから数年が経ち、一番大事なところでレギュラーを奪ったのは大したもんだが、楢の落ち込みは想像するだけで辛くなる。

 ベルギーに来てから1週間しか経っていないらしいが、チームメイトたちのコンディショニングに対する意識の低さに、少し驚いているようだった。

 実際、この日も練習が10時半から始まるのに、9時半からみんなで集まって朝食をとるというのだ。 なんだそりゃ!?
 昨日も試合前にアルコールを摂取する選手や、フライドポテトを食べている選手がいたという。

「身体がフィットしている選手がいないんですよ。太っているか痩せているかって感じで。」
 いくら欧州のクラブとはいえ、ベルギーリーグのクラブチームは財政的に余裕がなく、ドイツあたりと比べたら相当選手の意識レベルが劣っているのかも知れない。

 今のチームを足掛かりに、オランダリーグへとステップアップしようと考えている川島選手にとって、アマチュアクラブのような緩さは、今後大きなフラストレーションになるかも知れないし、「こんな事をしているために来たんじゃない」というジレンマと闘う事もあるだろう。

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質素なクラブハウス

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 芝生のコンディションは素晴らしい

 練習を見学させてもらったが、他の2名のGKよりも圧倒的な存在感とパフォーマンスを見せていた。

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彼のセービングはシュートコースに対して直角に入り、キャッチも顔からボール2つ分くらい前で掴む理想的なフォーム。

 基本的なキャッチやセービングのフォームは、昔イタリアでGKコーチから徹底して言われたらしい。

  GK練習を見れば、どれくらいスタンダードな事をおさえてきたのかが、すぐに分かるが3人のGKの中で、彼が一番完成度が高かった。

シュートゲームでは、ことごとく至近距離からのシュートと1対1をブロックしていた。

 W杯でもそうだったが、彼はFWとの間を潰すのが上手い。

GKには静と動の2タイプあるが、彼は完全に動のタイプ。

 味方チームの士気が低いと「Come on guys!!」と怒鳴りつけて鼓舞していた。

 「みんなW杯の試合を観ていたようで、ゲンクと試合をやった時も相手GKから「頑張ってね。」と声を掛けられました。やっぱりW杯に出たのは大きいですよ。」と川島選手は言う。

 確かにW杯に出場していなかったら、誰も日本人のGKの指示に従ってはくれないし、怒鳴りつけたら「うるせー!」と言い返されない。

 チーム練習が終わってから、GKだけでバックパスの処理を練習していたが、川島選手が両足とも完璧に蹴れる事に驚いた。

聞けば中学校の頃から、左足で蹴る練習を徹底してきたそうだ。

 GKの居残り練習が終わってからも、彼一人残って体幹のトレーニングとランニングをしていた。

 「バリバリ調子いいじゃん!」と振ったら、「いや、日本では毎日取材対応が忙しくて全然練習ができなかったんですよ。だから、こっちに来てから最初は全然ダメでした。やっと上がってきましたよ。」と充実した表情で答えていた。

 普通にいけば、彼がレギュラーを獲得するだろう。

 ランチをしにいく車中、彼が電話でスタッフとイタリア語で話し始めた。

「何年くらいイタリアに居たの?」と質問したら、1か月間しか滞在していないと言う。

毎週独学でイタリア語と英語を勉強していたらしい。

面白い男だ。

 ランチを食べ終え、ご馳走させてもらおうと鞄に手を入れたが財布が見当たらない。

「あれ!ない!」 「まじっすか!?」

 結局練習グランドに戻ってあたりを探したが見当たらず、電車の中で超不覚にもすられた事が判明した。

 財布を無くした事もショックだが、彼にご馳走する機会を奪われた事がもっとショックだった。

 とりあえずカードを全部止めた後、彼のアパートで治療をすることになった。

 やはりW杯後はメンテナンスできていないとあって、全身の筋肉が硬化していた。

 治療しながら将来の野望など様々な話をした。

「W杯を終えて、これからの数カ月間はヒーローとして持て囃されるのに、それを蹴ってこんな地味な土地に来たのは価値ある決断だよ」というと、「俺、全然そういうの興味ないんですよ。昔からヨーロッパで暮らしたかったし。日本よりもこっちの方が合う。全然日本に戻りたいと思わないですもん。」

 今回の移籍で彼の年俸は3分の1ちかくに減ったらしい。

そのまま日本にいれば美味しい事が沢山あっただろうに、川島永嗣は現状に甘んじることなく、敢えて険しい道を選んだ。

 「こだわり」意外の何ものでもない。

 やっぱりGKは一匹狼で変わっている奴が多い。

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アパートのバルコニーにて

 4時間続けて治療した後、夕食に出掛けた。

財布がないのでご馳走するどころか、お金を借りて帰ってくる始末。情けなさで一杯だった。

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 彼は食事に対しても非常にストイックで、ポテトフライ1本も口にしなかった。

 話が盛り上がり、気が付いたら終電に間に合うかどうかの時間になっていた。

「マロさん、家に泊まってていいですよ。」と言ってくれたが、お金を借りた上に部屋まで貸してもらうわけにはいかず、無理して帰ろうとしていたところ、店員のオヤジさんが「ブリュッセル車で帰るからホテルまで送ってやる」と言ってくれた。

 「ははは!マロさん、こんな感じですけどイイですか?」

「ああ、もちろんいいよ!」

 帰りは気前の良いオヤジさんと、英語とポルトガル語を交えながらブリュッセルまで戻った。本当に親切な方だった。

 私は記念すべき訪問者の第一号だったが、財布をすられた間抜けな訪問者として彼の記憶に残るだろう。

 川島永嗣という男は、世界中どこに行っても誰とでも仲良くなれるし、みんなに愛される男だ。

 これからの彼の活躍を心から楽しみにしている。









 
ニックネーム    at 08:38 | 今週のぼやき

2010年07月20日

しつこい踵の痛み

 今年の3月くらいから踵周辺に痛みを感じ始めていたが、誤魔化しながら朝のジョギングを続けていた。
5月の米国出張あたりから、足が着けないくらいの激痛が足底に走るようになった。

 やっと起床後の痛みは治まってきたが、まだ痛みと腫れが残っている。
うわさ通り、足裏や踵の痛みは長引く。

 踵や足底アーチ周辺の痛みを訴える中・高年の男性は結構多いのだが、私が体験的にお勧めするのは、ハンズの角材コーナーで直径5センチくらいの棒(長さは20センチ位)を買ってきて、足底でゆっくりと棒を転がしながら、アーチが固まっているところや、しこりになっている筋膜・腱膜を圧迫するように踏み込んでケアする事。

 棒の代わりにゴルフボールでも良い。
踵が痛い場合は直接患部を圧迫するのではなく、足底全体の強張りと局所的な塊をほぐしてあげることが大事だ。

 そして、帰宅してからはアイシングを感覚がなくなるまで行い、椅子に患側の足を載せておくこと。

 痛みを誤魔化して歩いたり・走ったりしていると、代償的な歩行・走行フォームが定着してしまい、膝関節や股関節に悪影響を及ぼすので、炎症が治まるまではあまり長時間歩きまわったり、痛みをこらえてジョギングなどしない方がよい。
ニックネーム    at 06:49 | 今週のぼやき

お知らせ

 本日、20日から28日まで欧州出張(ポーランド、オランダ、ベルギー)に行ってきます。

 ポーランドではアウシュビッツとビルケナウを見学し、ベルギーでは川島選手のメンテナンスをしてきます。

 お供に連れていく「脊柱のリハビリテーション」を読みあげて、少し進歩して戻ってきます。

  それでは。

 
ニックネーム    at 01:50 | 今週のぼやき
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