なぜだか理由はわからないがチャップリンが大好きで、「独裁者」を観た影響もあったのだろうが、とにかく一度は訪れなければいけないと思っていた。
(チャップリンはホロコーストの事を知り、独裁者をコメディータッチで描いた事を後悔したそうだ)
しかし、なかなかポーランドに立ち寄る機会はなく、この歳になってやっと願いが成就した。
地球の歩き方でアウシュビッツのガイドをされている中谷さんの事を知り、メールでガイドを依頼したが、「団体の先約あり」との事でで断られていたが、出国の2日前に「キャンセルが入ったので受けられます」というメールを届いた。
「オシフィエンチム」…これがアウシュビッツの元の地名だが、読み方が面倒くさいとドイツ人がアウシュビッツに改名した。
そのオシフィエンチムまで電車で3時間半も掛かるため、朝5時半にホテルを出て、ワルシャワ中央駅からクラコフを経由して→オシフィエンチム駅に向かった。
2日目だったがロストバゲッジのため、機内で着ていた汗まみれの服と下着を身につけて出掛ける羽目になった。
オフィシエンチム駅で中谷さんと待ち合わせた。
最初に対面した印象は、相手の性質を慎重に探る人であった。
駅から車で10分弱で到着した最初の施設がビルケナウ。
アウシュビッツ強制収容所だけでは足りずに後に増設された。
チリチリと強い日差しが照りつける中、ゆったりとしたペースで歩きながら説明を受けていたが、途中から中谷さんに対する関心が高まっていった。
「この方なら話しても通じる」と感じ、私は過去の大戦やその後の日本が歩んできた道のりについて持論を述べ、彼も淡々と持論を述べた。
線路にユダヤ人が詰め込まれて来た車両が1両あったが、その脇にイスラエルの国旗を身にまとった集団が地べたに座っていた。
「彼らは自分たちの親族の酷い殺され方にショックを受けて、休み休みでないと見学できないんですよ。」と中谷さんから説明された。
見学のルートは、ユダヤ人を載せた列車が入ってきた線路沿いを歩き→ガス室→焼却炉→人骨が捨てられた池→宿舎→アウシュビッツ強制収容所の順で周った。
シンドラーのリストのワンシーンに出てきた線路
右端に立っている医師が、指で右を差すと「毒ガス室」行き。左を差すと「労働者」となる。
ガス室へ送られる母の腕に抱かれる赤子。
途中から収容しきれなくなり、ほとんどの人々は到着して直ぐに毒ガス室へ送られた。
皆、この階段を降りて地下室に入り、「シャワーを浴びる」という名目で手前のスペースで服を脱がされる。そして、右に曲がったところにシャワーヘッドが天井に付いたガス室がある。満員電車の2倍の密集率で詰め込まれた。ここでも先導するのはユダヤ人なのだ。
この下(地下室)に毒ガス室があり、1500人もの人が詰め込まれた。天井から殺虫剤のチクロンBが落とされると窒息の苦しみで大地が揺れたという。殺虫剤を使用したため一瞬で死ねるわけではなく、窒息死するまで10分から15分も苦しんだという。
この池には数えきれないほどの人骨の灰が沈んでいる。半焼けの遺体も捨てたため長い間ガスが沸き出ていたという。(中国でもこの池と同じ事が起きていたのをご存じだろうか)
ビルケナウの最後に、ユダヤ人が寝泊まりしていた宿舎を案内してもらったのだが、この宿舎は湿地帯の上にレンガを積んで建てられているため、建物内は湿度が高い。
扉を開ける前から、とても嫌な予感がしていた。
入室する時に、中谷さんが「独りでは怖くて入れませんよ」と言った。
この言葉は聞いた時、13年間ちかくこの地でガイドをされていながら、単なる「お仕事」にいない事、そして、この地に慣れていない事に対して「心がある人だな」と思った。
確かに振り返ったら、大勢の人たちが横たわってこちらを見ている気がしてならなかった。「今まで数人の人が、この部屋に入って同じ感想を言いましたよ。」と中谷さん。
多くの人々が銃殺された「死の壁」 倒れた2つのロウソクを立て直す中谷氏
中谷さんの話を伺っていて、支配する側よりも支配される側の集団的心理について、強い興味をもった。
ドイツは収容されているユダヤ人の仕切りを、ドイツ兵ではなく同胞のユダヤ人にさせていた。
リーダー的存在の人間には「頑張れば生き残れる」ように思わせ、同胞の監督をさせていた。
だから暴動や反乱が起きる前に、不穏な動きがあるドイツ兵にリークしたりして生き延びた者もいたようだ。
「人は究極の状況になると、どうやったら一日でも長く生き延びられるかしか考えられなくなるものなんですよ。 ドイツ側に情報を流した人たちは、自分が生き延びて種を残すことが相手への抵抗になると考えたのです。」と中谷氏はいう。
ドイツは収容所の設計から建築、運営や規則づくり、虐殺行為まで、すべて分業にしていた為、関わっていた人たちには罪の意識はそれほどなかったらしい。また、ルールを詳細に設定することで、罰を与えるドイツ兵の罪悪感を上手に弱めたようだ。
実際、収容所にいたドイツ人たちは「自分は殺していない。中央機関からの命令に従っただけで、そういう意味では自分も被害者だ」と口を揃えて言うらしい。
「働けば自由になれる」有名なアウシュビッツの門
アウシュビッツに展示されている毛髪や鞄、靴などが山積みにされた写真は何度も本で見たが、実際に目の当たりにすると苦しいものがある。
特に赤ちゃんや幼児の衣服や靴の山を見た時、12歳の甥っ子の事を連想した。
「なぜ、ドイツとイスラエルは関係を修復できたのですか?」と訪ねた。
「それはドイツが自分たちで過去の過ちを認めて謝罪し、今後彼らに危害を与えないという事をはっきりと示したからです。その点日本はもう一歩勇気が足りないですよね。」と中谷さんが言った。
確かにそう思う。
戦後、被害国に対してドイツと日本がとってきた態度と行動には、とても大きな隔たりがある。
ビルケナウとアウシュビッツの隣に民家が結構ある。
「よくこんな場所の近くに住めますね」と私が言うと、「逆ですよ、伊藤さん。彼らは元々この地に住んでいたのであって、ドイツが勝手にこの地へ収容所を作っただけの事です。こんな施設がなければ、この地が世界中で知られる場所にはならかったのです。」
見学を終えて一杯ビールを飲んでから駅まで送ってもらった。
帰宅したら、ランチにお子さんへハンバーグを作ってあげるらしい。
別れを告げて電車に乗り込もうとした時、大事な大事な医学書を車の後部座席に忘れてきた事が発覚し、慌てて中谷さんに電話をした。
「医学書でしょ。伊藤さん、電車1本乗り遅れるけどいいかな?」
「もちろんです。」と応えながらも、内心は「あ〜あ、早めに帰らないとショパンミュージアムが閉館しちゃうから、この電車逃したらクラコフの観光できないや。」と凹んでいた。
10分後、本を片手に中谷さんが現れ、「伊藤さん、これは何かの縁だからクラコフの駅まで送っていきますよ。」
「いやいや、1時間以上掛かるのに申し訳なくて頼めませんよ。」と断ったが、頑なに送っていくと仰ってくださったので、お言葉に甘えて送って頂く事にした。
中谷さんは、翌日から日本に戻って8か所近くを周って講演をされるという。
何気なく講演の時の自分の心構えや、知人の著名な講師たちから聞いたコツを紹介していたら、「いやー、これは本当に何かの巡り合わせだな。実は、何を話そうかまとまっていなくてイライラしていたんですよ。伊藤さんの話を聞いていたら、3つの章立てができたんですよ!いや、本当に良かった。こういう事だったのか。」と、とても喜んで下さった。
こちらは恐縮の限り。
ご迷惑をおかけした事に対して何度もお詫びをすると、「謝る必要なんてないですよ。私は無理をしませんから。私は縁を感じたからこうしているんです。こっちで暮らしていると理論よりも巡り合わせ(直感)に従うと上手くいくんですよ。」と言って下さった。
理論よりも巡り合わせを優先…プライオリティの設定が自分と似ている。
結局、車中からクラコフの街並みとお城を見学して、駅前のカフェで遅めのランチをした。
移動中も食事中も、ずっと夢中でお話をしていたが、とてもとても中身の濃い話ができた。
最後はプラットフォームまで見送りに来て下さり、軽くハグしてから握手をして別れた。
「また何処かで会いましょう。」
普通の日本人なら「必ず連絡します。」なんて言うものだが、その辺はさすがにサバサバしていて中谷さんらしいと思った。
帰りの車中では、2日目にして旅の半分の目的を果たせた達成感と、素晴らしい縁を与えてもらった事に対する感謝の気持ちで一杯になっていた。
※戦後、日本は中国をはじめベトナムやカンボジアなどのアジア諸国に多大な経済的、人 道的支援をしてきた。 特に中国に対しては「賠償的」な意味も含めて、相当な経済的支援(ODA)を行ってきた。(日本人でも知らない人が多い)
中国の奥地には、日本を「小国」「虫のような小さな国」と馬鹿にする輩もいるようだが(日本にも同等の連中はいる)、今日の中国の目覚ましい発展に、我が国が僅かなりとも貢献した事は間違いないはずだ。
しかし、ただ金をあげるだけで、それを交渉に上手く活かせず、PRもできていない無能な外務省と政治家、日本が支援した事を自国の国民に伝えない中国政府のずるさに腹が立つ。
日本政府はドイツとイスラエルが積み上げてきた関係から、何か学べる事があるのではないだろうか。





